第二話 セーリングの価値


      

エンジンで走れば簡単な事、にも拘わらずセーリングで走る。それは不合理な事、でも、敢えてそれをするのは、エンジンで走るのでは味わえない何かがあるから。遊びに合理性は無くても良い。むしろ、非合理な処にこそ遊びがあると思います。何かの役にたつ事があれば、人はそれをつい追い求めてしまい、そうなると遊びが遊びで無くなっていく。

前話でレジャーから趣味までと書きましたが、本当はヨットはレジャーにはならないのではないか?何故なら、自分で計画して、自分で準備して、自分で操作をする。もうこれは趣味の世界に既に踏み出している。レジャーは、他の誰かが準備して、自分は楽しむだけ、そこに考えたり、工夫したりは必要無い。遊園地を見ても、温泉旅館を見ても、食事も、酒も、全て用意してくれます。それがレジャーなのではなかろうか?とするなら、ヨットは最初から趣味の世界と言えるかもしれません。

気持ちはレジャー、でも、実際は趣味の世界、そのギャップが、やがて、ヨットを動かないものにしてしまうと言えないだろうか?

セーリングすると、時にグッドフィーリングを感じます。これはエンジンで走って感じれるものでは無い。そのグッドフィーリングは、たまたま、そのヨットに良い風が吹いた時、偶然にもグッドを感じれる。でも、風はいつも都合良くは吹いてくれませんので、それをどうするか? 人に寄っては風任せの方もおられますが、そこを 何とかしようかと考え、工夫をする処に踏み出せば、セーリングの面白さが増していきます。たったこれだけの事で、一歩踏み出せば、その先は果てしなく続きます。

強風で大きくヒールしている時に、シートを出せば、ヨットはスーっと起き上がる。引けばまたヒールして、それに伴って、舵が重くなったり、軽くなったり、スピードが変化したり、そこで、どのあたりが良いかと探ります。今の風とのバランスを探る。軽風だったら、セールをゆったりさせて、いわゆる揚力をできるだけ高めようとする。それで少しでもスピードが上がると、それなりに気持ちが良い。ありとあらゆる風があって、それぞれに、できるだけバランスしようと工夫しますが、その工夫こそが面白さを生み出すと思います。エンジンのスロットルを上げるか、下げるかだけの単純な話ではありません。どこまでやるかはそれぞれですが、やろうと思えばいくらでも操作の余地がある。それが趣味的遊びだと思います。

ですから、クルージングにしたって、セーリングにしたって、ヨットは最初から趣味として、考え、工夫して遊ぶのが本来の遊び方ではなかろうか?もちろん、別荘的使い方はレジャーかもしれませんが。

セーリングの価値は、セーリングでしか味わえないフィーリングにある。さらに、それをどう演出するか次第でも、フィーリングも違ってくる。全ては自分次第という事になります。ですから、ちょっとだけでも考えて、工夫をしてみると良いのでは無いでしょうか?その工夫こそが面白さを生み出すと思います。セーリングはただ移動しているわけじゃ無い。


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