第二十九話 我侭のすすめ

80対20の法則というのを聞いた事があると思います。会社で言えば、20%が会社
の80%の利益を上げているとか言われます。生物学でも、蟻の世界で言えば、本当
に働いているのは20%の蟻だそうです。もし、これが全ての蟻が本当に働くようにな
ると過当競争となって、その生物は滅びるそうです。自然の摂理が80%の働かない
蟻を生み出し、消滅しないようにできているとか。

ちょっと強引ですが、一人の人間を考えた場合、80%は社会に適用するように社会性
を持ち、20%がそうでは無いとすれば、これは逆の数値では無く、一人の人間を特徴
付けているのが20%で、80%は他と共通だと考えます。つまりは、20%がその人間
の個性であるわけです。本当かどうかは知りませんが。こう考えると、納得できる部分
もある。美しいものは人類共通して美しいと思う。しかし、別のものを美しいと感じる事
もある。食べ物ではおいしいと思う人も居れば、おいしくないと思う人も居る。でも、これ
もおしなべておいしいと思われている食べ物はだいたい誰が食べてもおいしいと感じる。

一人の人間の80%は社会性があり、生存していくのに必要な共通する感覚を持つ。しか
しながら、本当の個性、本当の自分、そういう物は残り20%にあるのではなかろうか。
そういう意味では、人の好き嫌いは合理性が無い場合がある。特に、遊びはそうではない
でしょうか。ある人は赤色が好きだったり、黄色が好きだったり、こんな事は生きていくうえ
で共通である必要も無く、この好き嫌いに合理性などは無い。昔、外車を所有していた方
が、この車は雨水は漏るし、よく故障するし、とか笑いながら言っていたものです。合理的
に考えれば、そんな車は手放すべきですが、その人にとっては価値がある。この不合理性
はその車が実用的である必要が無い場合です。仕事で使う車ならば、こうは行かないし、
こんな車を仕事で使う人は居ない。仕事は合理的である必要性がある。でも、この不合理
の中にその個性があり、これこそが、その人の80%を表しているのかもしれません。

つまり、人の個性は不合理で、特に、遊びには不合理が通り、仕事には合理性を働かせる
誰が、どうみてもあっちの方が良いと合理的に考えればそうなのだが、でも何となくこっちの
方に引かれる。こういう事がある。自分自身の本性が不合理ならば、理性で考えても出て
こない事になります。人は、こういう不合理性を時々表してやらないとストレスが溜まる。

ヨットは純粋なる遊びです。これを会社の接待などに使うというのなら、これは遊びでは無く
なりますが、そうで無い限り、純粋に遊びである限り、ヨットは人の不合理の中にあるべきで
す。という事は、理性で考える物では無いという事になります。

ヨットを選択する場合、何人寝れるベッドがあるか、セールエリアは充分か、重さはどうか、
スタビリティーはどうか、こういう事を計算したり、調べたりします。こういう事が必要では無い
とは言いません。しかし、こういう合理的考え方をする前に、本心がこのヨットにひかれるか、
どうか。ここが大切な所ではないかと思うのです。例えかすかにひかれる物を感じたとしても
すぐに、理性が打ち消す場合が多い。こういう場合はどうか、ああいる場合はどうか、と合理
性に頼る。その方が誰でも納得しやすいし、自分自身も納得させようとする。でも、この合理
性は本当に遊びにおいては満足できるものにはならないのではないかと思うのです。
自分の我侭を通した場合、それでも不安になって、合理的な理屈を後から考え出して、自分
を納得させようとしますが、でも、結局、本当に楽しめるのは、こちらの方ではないかと思う
のです。外洋性のあるヨットを探しながら、そうでは無いヨットに引かれてしまった場合、合理
性と不合理がぶつかりあいますが、でも、本性が選んだ方が正解なのではないか、本当に
自分が楽しめるのはこちらの方で、外洋性は理屈の頭が考え出した幻ではないか。そう思う
のです。

ですから、私は我侭をお奨めします。感覚を信じます。理論なんてものは後から人間が考え
出した相対的な物ですから、本当の自分では無い。合理性で選んだ物は、後から、そうでは
なかった部分が出た時には、合理的に不満をもたらす。でも、不合理で我侭に選んだ場合、
後の全ての良い部分だけを見ようとする癖がある。だから、嫌う事が無い。良いところしか
見ないんですから。このヨットでは外洋には行けないとしても、本当は外洋など行きたくなか
ったのかもしれません。ヨットは純粋な遊びですから、我侭に個性を出して選ぶべきでは無い
でしょうか。それが、合理的優先社会に生きる人のほっとできる時ではないかと思うのです。

ヨットの数値的データとか、そういう物、広さなどはそれで重要なファクターでしょう。でも、その
前に優先すべきは、自分の不合理、我侭な感性ではないでしょうか。気にいればあばたも
エクボ、でも、気に入ることが重要です。それが私です。私は不合理でできてます。

次へ       目次へ