第三十話 である事

前にもこのタイトルで書いた事がありますが、どうもこの事がずっと気になっています。
人が何かする。仕事、遊び、人とのつきあい、何でも、何かをする場合に、何を、どう
やるかという事を考えます。私はヨット屋ですから、どんなヨットをどういう風に売ろうか、
と考えます。遊びにしても同じで、自分の好きな事をどういうやり方ですれば良いかを
考えます。それらはうまく行く時もあれば、うまく行かない時もある。うまく行かない時、
どの部分のやり方が悪かったのかと考えます。知識が不足していた。技術が未熟だった
そういう事を考えます。確かに、それもあるだろう。でも、果たしてそれだけだろうか?

豊富な情報や技術、知識等があれば、全てうまく行ったのか?と疑問に思います。うまく
行った時も、決して充分なる知識や技術があったわけでは無い。何が、うまく行く事とそう
では無い事を分けてしまうのか。後、考えられるのは偶然という事になりますが、どうも
これも納得しがたい。したく無いのかもしれませんが。

それで考えた事は自分がその準備ができていたのかという事です。この準備というのは
やっかいですが、知識や技術以前の問題です。言うならば、心の準備のようなものです。
同じレベルの技術や知識を身につけた人は全員うまく行くのかというと、そうでは無いと
思います。この違いは人それぞれの準備ができていたかどうかではないかと思うのです。

ヨットで世界一周をする。豊富な技術をもって、経験を積んでいても、できない人はできない
一方、以前知り合った人で、初めてヨーロッパでヨットを買って、ちょっとそこで練習して、
日本に乗って帰ってきた人がいました。技術は大切な事ですけども、その前に準備ができて
いたか、物理的な準備では無く、目では見えない準備です。覚悟とも違う。言うならば、何か
をするにあたって、それを成すに相応しい自分になっているかどうかではないかと最近考えて
います。そうであれば、どんなやり方だろうが、多少回り道をしようが、必ずできる。そう思え
ます。逆に、自分の準備さえできていれば、適切な情報や技術がタイミング良く得られるのでは
ないかと思うのです。

では、どうやったら準備ができるのか?それは頭で考える事では無く、感じる事ではないだ
ろうか。無意識の中にある感覚的なものではないだろうか。ひとつは面白がる。今からやる
事を面白がる。その面白いという感覚を持って、知識と技術を得る。その面白がるという感覚
が、やった事で出る結果を気にしなくなった時、準備ができてくるという気もします。でも、この
面白がるという感覚は意識してできるものでは無い。どうも難しいです。でも、技術や知識を
得ている間に、興味が膨らんできて、面白いという感覚になっていく事はあるでしょう。で、その
うち、結果さえも気にしなくなり、とにかくやる事に興味がわいてくる。やっている事が面白い。
そういう感覚でしょうか。逆に、どうしても面白がれ無い時は準備ができていないとも言える。

世の中、知識偏重といいますか、頭脳重視ですが、人間は極めて感覚的であると思うのです。
成長するにつれ、感覚は抑えつけられ、知識が優先されてきた。だからストレスが溜まる。
そこで、ヨット遊びです。このヨット遊びを極めて感覚を大事にして、自分の本来の感覚を取り戻
し、自分が”である事”を感じる事、これこそが遊びの大いなる意義ではないでしょうか。遊び
は感覚優先で、自分の感性を大切にして、自分に栄養を与える。そしたら、自分のである事が
膨らんでいくような気がします。

まだまだ、あいまいですね。何言ってるんでしょうか?とにかく、ヨット遊びは理屈では無く、感覚
的に遊びましょう。感覚を磨くにはヨットは最高です。

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