第八十五話 ヨット感

ある討論番組を見て、ふっと感じた事があります。それは人間ってのは難しいもんだな〜という事です。討論は理論的な方が勝つ。ああすれば、こうなる。だから良い。難しいのは、部分としてはその通りかもしれないが、全体を見た時、その討論が目指すテーマ全体のあるべき姿が明確で無いと変な方向に行き易いのではなかろうか?

そこで、ヨット感、ヨットは全体的にどういうものであったら良いか?そこを欠如して考えると、部分的な善し悪しだけでは全体を失いかねないのではなかろうか?では、ヨット感とは何か?考えるまでも無く、楽しさや面白さ、これを失ってはどうにもならないだろうと思います。

便利なるものがあります。我々の発展は便利さの追求だったかもしれない。ですから便利は良いものとして捉えられます。我々はある種の便利教の信者です。便利に逆らう者は文明に逆らう者です。便利は我々の生活をより豊かにしてくれます。

しかし、ヨット感なるものと照らし合わせて考える時、必ずしも、便利が良いとは限らないと思います。便利イコール楽しさや面白さになるとは限らないからです。その便利さと、それを実際使った時に起こるかもしれない失われるものについて、なかなか考えつきません。さらに、実際使っても、そこに気づかない事もあり、長い間に徐々にヨット離れという現象が現れるかもしれない。

従って、楽しさや面白さとは何か?自分のヨット感なるものを、良く考えた方が良いのかもしれません。便利はできるだけ操作が楽である、簡単である、或はしないでも良い。そういう方向に向かいます。しかし、過ぎると楽しさや面白さが失われるかもしれない事も考えた方が良い。それは個人差があると思います。だから個人のヨット感が必要だろうと思います。

セーリングは走る状態を楽しむというだけの事では無く、面白さとは、その走る状態への過程、いかにしてそういう走りができたかという、結果のみならずプロセスまでもが重要だろうと思います。
クルージングにしても同じで、どこかに到達したという結果だけでは無く、如何にそこに到達したか。プロセスがあるからこそ面白さがわいてくるかと思います。そうでないなら、誰か腕の立つ人に操船させて乗れば良いし、或は、ヨットで無くて、車で行っても同じ結果が得られます。しかし、それでは面白くない。

この装置をつけると便利です。だから付けましょう。という話があって、反対側には、確かに便利ではあるが、そのデメリットもあるのではないか? 例えば、その装置のお陰で便利になる。便利になるが、面白さが失われる。そういう反論が成り立つとします。

しかし、理屈で言えば、これを搭載したら、こんなに便利なんです。その理屈は正しい。しかし、使うのは人間であり、曖昧な楽しさや面白さの追求であり、その曖昧さは個人に寄るものです。あらゆるものはメリットだけでは無く、裏に必ずデメリットもあり、それは各個人のヨット感によって、意識的に判断されるべきかと思います。怖いのは、便利に対して失われるかもしれない面白さに気づかない事です。

その他にも、ヨットは速い方が良い、大きい方が楽、キャビンは広い方が良い、物で言えば、オートパイロット、電動ウィンチ、メインファーラー、エアコン、温水、冷蔵庫、等々。いろんな便利があって、これらを否定しているのでは無く、それを使うにあたっては、便利教ならぬ、自分のヨット感を持った自分教があった方が良いと思います。

あるヨット、全てが整っています。出航はジョイスティクがある。セーリングには電動ウィンチがあってボタンひとつ。そしてその方、オーパイを作動させて、何もしないで良いと言われます。もちろん、彼のヨット感において正しければ良いわけですが、私から勝手に想像させていただくと、何が面白いのだろうか?と、余計なお世話ですが、思ってしまいます。恐らく、ヨット以外の部分に面白さや楽しさが創造されないと、そのうち乗れなくなるのではなかろうか?こうなると、セーリングは目的では無く手段になります。手段であれば、他に目的が必要になりますから。これも否定しているわけではありません。本人が楽しくて、長く続けていけるなら、それで良い。

自分教なるヨット感について、考えてみては如何でしょうか? どういうヨットライフで、何を楽しみたいか? その全体像が明確なら、便利教なり、ある種の何なに教に惑わされる事無く、自分教で判断できますから、何が必要であり、何が不要であるかもすぐに解る事になります。

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